2014年05月31日
ハイビスカス
超久しぶりの投稿です。
ハイビスカスが咲きました。
最近、仕事で沖縄に行く機会が、めっきり少なくなり、少しでも沖縄気分を味わいたいので。
昨年も栽培していたのですが、今年の冬に屋外に放置していたら枯れてしまいました。先日新しいのを購入したのが咲きました。
ハイビスカスが咲きました。
最近、仕事で沖縄に行く機会が、めっきり少なくなり、少しでも沖縄気分を味わいたいので。
昨年も栽培していたのですが、今年の冬に屋外に放置していたら枯れてしまいました。先日新しいのを購入したのが咲きました。
2012年10月28日
酒造所見学 碕山酒造所
泡盛、松藤で有名な碕山酒造の見学に行ってきました。
場所は、本当中部、うるま市石川山城469-1
ドライブなどでナビ検索用に電話番号098-964-6388
です。
ここの酒造所は、創業明治38年で長い歴史を持っています。
創業時は那覇の首里に構えていましたが、現在では中部のうるま市に移転しています。
酒造所の見学は、たいがいの酒造所で受け入れてくれるし、ほとんどが無料です。
しかも、(タダで)試飲できる可能性が高い。
崎山酒造廠(しゅぞうしょう)の代表的泡盛である、「松藤」は二代目の起松とその妻、藤子の名前を一文字ずつ冠したもので、女性の地位の低かった昭和初期に妻の名の文字を商標に取り入れられています。
当時の起松と藤子の平等な位置関係と二人三脚で酒屋を盛り立てる夫婦の愛情が刻み込まれている。
泡盛の銘柄なんて無い時代に全てが量り売りで、「崎山のサキ」と呼ばれた時代から「松藤」と呼ばれて70年。オトの思いは激動の20世紀を超え、息子起松と藤子へとつながり「松藤」の名は、支え続けた蔵人と女性たちへの応援歌として、各世代が生涯をかけて守り育て、泡盛に対する深い情熱と伝統の造りは今も脈々と受け継がれている。
で、見学写真です。
取り扱う酒の量からして、思ったよりも小さな個人経営的酒造所でした。
泡盛の原料となるタイ米です。
工場内の様子。
熟成しているところ。温度管理が大事ですね。
【以下、公式サイトより転記】
創業者、碕山オトは明治12年3月10日比嘉昌文の長女として生まれる。オトは首里鳥堀町の崎山起心に23歳で嫁ぎ、長男(起松)・長女(有子)・次女(光子)を儲けている。起心は病弱であったため、オトは病床の夫を助け、実家の家業であった、造り酒屋を新たに始めた。(オトの実家は現在の㈱比嘉酒造まさひろである)1905年明治38年の事である。オトは気丈な性格で、当時としては珍しい自立した考え方と明るさを兼ね備え、子育てをしながら、夫を看病した。元々実家のコウジサーとして、働いていた技術を活かし、妹の助けを借りて酒屋を切り盛りした。
オトの夫、起心は明治42年12月35歳の若さでこの世を去り、翌年には姑のウシも亡くなっている。夫の看病、3人の子育て、自らが営み始めた造り酒屋の切り盛りなど、オトの芯の強さは明治女といわれる所以だけでは表せないほどのすごさを持っている。
その後、崎山家は、当初始めた鳥堀の酒屋を妹の屋嘉比家に譲り、舅の崎山起志と相談し、赤田にあった友寄酒造を買い取り、操業を始める。それが、崎山酒造の前身になっている。長男起松を始め、子供たちは酒造りを手伝いながら、祖父起志の厳しい教えを受けながら、立派に育っている。しかし、オトを助け、孫たちを厳しくも温かく育ててくれた舅起志も大正3年1月61歳で亡くなる。
オトは1934年(昭和9年)に56歳でこの世を去っているが、2代目起松は当時、若干30歳であった。オトがこの世を去る4年前、起松は藤子と結婚、結婚後すぐにコウジサーとしてオトの教えを受け、その後の2代目起松の波乱万丈の人生を支え続けている。
碕山酒造所へのリンクはこちら
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場所は、本当中部、うるま市石川山城469-1
ドライブなどでナビ検索用に電話番号098-964-6388
です。
ここの酒造所は、創業明治38年で長い歴史を持っています。
創業時は那覇の首里に構えていましたが、現在では中部のうるま市に移転しています。
酒造所の見学は、たいがいの酒造所で受け入れてくれるし、ほとんどが無料です。
しかも、(タダで)試飲できる可能性が高い。
崎山酒造廠(しゅぞうしょう)の代表的泡盛である、「松藤」は二代目の起松とその妻、藤子の名前を一文字ずつ冠したもので、女性の地位の低かった昭和初期に妻の名の文字を商標に取り入れられています。
当時の起松と藤子の平等な位置関係と二人三脚で酒屋を盛り立てる夫婦の愛情が刻み込まれている。
泡盛の銘柄なんて無い時代に全てが量り売りで、「崎山のサキ」と呼ばれた時代から「松藤」と呼ばれて70年。オトの思いは激動の20世紀を超え、息子起松と藤子へとつながり「松藤」の名は、支え続けた蔵人と女性たちへの応援歌として、各世代が生涯をかけて守り育て、泡盛に対する深い情熱と伝統の造りは今も脈々と受け継がれている。
で、見学写真です。
取り扱う酒の量からして、思ったよりも小さな個人経営的酒造所でした。
泡盛の原料となるタイ米です。
工場内の様子。
熟成しているところ。温度管理が大事ですね。
【以下、公式サイトより転記】
創業者、碕山オトは明治12年3月10日比嘉昌文の長女として生まれる。オトは首里鳥堀町の崎山起心に23歳で嫁ぎ、長男(起松)・長女(有子)・次女(光子)を儲けている。起心は病弱であったため、オトは病床の夫を助け、実家の家業であった、造り酒屋を新たに始めた。(オトの実家は現在の㈱比嘉酒造まさひろである)1905年明治38年の事である。オトは気丈な性格で、当時としては珍しい自立した考え方と明るさを兼ね備え、子育てをしながら、夫を看病した。元々実家のコウジサーとして、働いていた技術を活かし、妹の助けを借りて酒屋を切り盛りした。
オトの夫、起心は明治42年12月35歳の若さでこの世を去り、翌年には姑のウシも亡くなっている。夫の看病、3人の子育て、自らが営み始めた造り酒屋の切り盛りなど、オトの芯の強さは明治女といわれる所以だけでは表せないほどのすごさを持っている。
その後、崎山家は、当初始めた鳥堀の酒屋を妹の屋嘉比家に譲り、舅の崎山起志と相談し、赤田にあった友寄酒造を買い取り、操業を始める。それが、崎山酒造の前身になっている。長男起松を始め、子供たちは酒造りを手伝いながら、祖父起志の厳しい教えを受けながら、立派に育っている。しかし、オトを助け、孫たちを厳しくも温かく育ててくれた舅起志も大正3年1月61歳で亡くなる。
オトは1934年(昭和9年)に56歳でこの世を去っているが、2代目起松は当時、若干30歳であった。オトがこの世を去る4年前、起松は藤子と結婚、結婚後すぐにコウジサーとしてオトの教えを受け、その後の2代目起松の波乱万丈の人生を支え続けている。
碕山酒造所へのリンクはこちら
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2011年11月01日
泡盛の日
今日は泡盛の日だということなので。(いつも通りか)
泡盛の日
沖縄県酒造組合連合会が1989(平成元)年に制定。 11月から泡盛製造の最盛期に入り、泡盛の美味しい季節となることからだそうです。
泡盛の日
沖縄県酒造組合連合会が1989(平成元)年に制定。 11月から泡盛製造の最盛期に入り、泡盛の美味しい季節となることからだそうです。
2011年08月01日
泡盛☆花島唄
これは暑いなか、薄いブルーの瓶が涼しげだったというだけで偶然購入した泡盛です。
比嘉酒造の泡盛です。
口当たりが良いというよりも日本酒的な味わいです。
口に吹くんだ瞬間ピリッとくる感じでした。
上善如水と似ています。
まあ原料は同じ米だし。
爽やかな味わいで夏に向いてます。
比嘉酒造の泡盛です。
口当たりが良いというよりも日本酒的な味わいです。
口に吹くんだ瞬間ピリッとくる感じでした。
上善如水と似ています。
まあ原料は同じ米だし。
爽やかな味わいで夏に向いてます。