ペリーと沖縄

泡盛の杜管理人

2008年04月19日 00:01

ANAの2008年4月の機内誌。
いつも適当に流し読みしている機内誌ですが、4月号はやたらと沖縄の記事が目立ちます。
航空会社もゴールデンウィークに向けて、売り込みが必死なんでしょうね。
と言うわけですが、2008年4月号では、ペリーと沖縄という記事が組まれていました。


ペリーと言えば、みんな知っているのは、浦賀に上陸、鎖国終了。と言う歴史的内容ですよね。
ところが、浦賀を訪問する前の1853年5月26日に、ペリー率いるアメリカの大艦隊は、本土ではなく沖縄の那覇港沖に姿を現したのでした。

なぜ、ペリーは沖縄に来たのか。
ペリーがやってきた当時の沖縄(琉球)は「リューチュー」と呼ばれていたそうです。
1852年11月24日にアメリカ東海岸を出発した艦隊は4ヶ月に及ぶ船旅を終えて1853年5月26日に「リューチュー」の島影を見ました。
艦上の者達は皆、その美しい風光に心を打たれました。
ある者の記事によると「島の海岸は緑で美しく、極めて鮮やかな緑色の森があって、さまざまな色を呈していた。…」とあります。

で、あんまりばらしてしまうと、問題があるかと思いますが、この機内誌は沖縄好きにとって非常に興味をそそられる記事でした。
普段飛行機では爆睡されている方も、ぜひ読んでみてください。

それと、また、そのときの同行の画家が描いた琉球の絵がいいんです。


結果として、琉球王国と友好関係を結んだと言うことでした。

そういえば、もともと琉球国は、明(中国)との交易やシャム(タイ)、ジャワ(インドネシア)など、東南アジアの貿易の拠点でもありましたよね。
この国に薩摩藩が1609年に侵入し、以降は薩摩藩の支配下、日本となったわけです。
ペリーは、入港翌日には琉球島探索を3隊に分けて行っていたそうです。
まさに、日本の歴史が動いた瞬間でしょうね。

それと、那覇の街に山下町と言うところがあって、ここにはペリー医院、ペリー保育園、ペリー美容室など、「ペリー」と名のツク付くものがやたらとあるそうです。
上陸の碑があるのは、泊港で、この一帯とは直接の関係がないようですが、「マレー作戦を指揮した陸軍大将の山下と同じ名前が気に入らない」と言う米軍高官の意見により、戦後に「ペリー区」と名付けられたそうです。1957年に琉球政府によって山下町に戻されたそうですが、地の人々は親しみを込めて、現在に至るまで「ペリー」の名が残っているようです。

きっと、ペリーも泡盛によってもてなされたんでしょうね。

と、最後まで読んで、あまりの記事の内容のすばらしさに、納得。

なんと、この記事を書かれたのは、季刊カラカラの編集発行人である、あなんみつぞう氏の文章でした。
どうりで詳しいわけだ。

詳細を読みたい方は、ANAの機内誌を読んでください。
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